2013年6月4日火曜日

機械との競争は回避しよう

5月29日に「機械との競争」なる本を読み始めるとツイートしていました。
それから6日目。
合間をぬって読み、ようやく読了。6日間で、2回ほど読み直しました。

かなり昔、時間が無限にあるように思っていた頃ですが、Visions: How Science Will Revolutionize the Twenty-First Centuryというニューヨーク大学(?)の先生が書かれた本を読んだことがあります。

15年ほど前のことです。
英語だったため、一行一行丹念に読んだので(英語ゆえ普通の速度で読めない涙 )、よく覚えているのですが、そこには、21世紀は、ネットは、階層的に中間層の仕事を消滅させていくということが予言されていました。
まだAmazonが赤字経営であった頃です。
それから10年後・・・
その予言はほぼ当たっています。

先の「機械との競争」にはそのことが雇用や所得のデータを用いながら解説されていました。
蒸気機関、電気、内燃機関に代表される経済発展に強い影響力を持つ技術革新につながる技術を「汎用技術」と呼びます。
現代の汎用技術は紛れもなくデジタル技術(=コンピュータ+ネット)です。
デジタル技術が得意な分野で人間が対抗して勝てるはずがありません。
自動車に、素足で100m競争を挑むようなものです。
デジタル技術がもっとも得意とするのは「似たような事が継続的に起きること」の代替です。
いわゆるルーティンワーク的な仕事。
そういった仕事は将来的にはデジタル技術によって代替されていくでしょう。
現在もルーティンワーク的な仕事は徐々に淘汰され、それらの仕事をしていた人たちは職業の転換を求められています。
例えば空港のカウンター業務などがそうですし、また最近では映画館とかチケット売り場は完全無人になりました。
光の森の映画館にいったとき、チケット売り場が一新されているのを見た時、こういった所が狙い撃ちされるんだなと衝撃を受けたことを覚えています。
映画館で見かけた人間というと、ポップコーンを売っている人とチケットを「ちぎる」人、掃除の人を見かけたぐらいです(いずれも肉体労働というコンピュータが不得意な領域)。
さらに、米国では、無人ストアにお客さんは徐々に慣れてきているといいます。
そうなるとスーパーのレジは不要!?
もっとも、ガソリンスタンドとかはアメリカではかなり前からそうでした。

仕事は汎用技術によって劇的な変化を受けていきます。
デューク大学の先生が、「今、小学校に入学した米国の小学生の65%は、大学卒業の際には今存在していない職につくだろう」と予測しているそうです。(たとえば この記事 や この記事 など参照)
小学生のことを心配しているだけではいけない。
これは同時に、現在就職する大学生の多くも、将来的に仕事の種類が変わっていくということを意味しているわけですから。
最初にどこに就職していくかはもちろん重要でしょう。
だけど、この65%云々という事実は、最初の就職と同じぐらい、働き始めた後に、次々と現れる新しい職業に自分をどう適応させていくかが重要だということです。

「機械との競争」には、こんなことが書かれています:
大学を出たら毎日上司にやることを指示されるような従来型の仕事に就こうなどと考えていると、いつの間にか機械との競争に巻き込まれていることに気づくだろう。上司のことこまかな指示に忠実に従うことにかけては、機械の方がはるかに得意であることを、ゆめ忘れていはいけない。

安易な公務員指向とかには、こんな意識がありはしないでしょうか。
もし仮にそうした仕事に就いたとしら、その人は、汎用機械(コンピュータ+ネット)と競争させられることになるでしょう。
太刀打ちできるはずがありません。
汎用機械の強力さの前に、仕事を追われることになるでしょう。
自動車に、自分の足で競争しようなどと、それが無謀であることはドン・キホーテだってすぐにわかるはず。
でも、まだそのデジタル技術の持つ威力を実感できず、それに無謀さに挑戦しようとしている人たちもいるように思えてなりません。
現代のドン・キホーテと言えるのかもしれません。

ではどうすればいいか。
答えは簡単です。
デジタル技術と対抗するのではなく、それを活用するスキルを身につけていけば良い。
自動車に対抗するのではなくて、自動車を運転するスキルを身につけ、自動車を活用してまだ行ったことがない新しい場所へと旅する能力を獲得すればいいのです。
速く走るというところは自動車に任せ、それを操作する知的部分を人間が担当すればいい。
確かに内燃機関(エンジン)の登場によって従来型の仕事の多くは駆逐されました。
だけど、人間は、自動車を操作する能力によってそれと共存するやり方を編み出した結果、新しい仕事が創造され、結果として消滅した仕事以上の新たな仕事を生み出されたのでした。
仕事の総量が減るわけではないけれど、内容は大きく変わっていく。
そうした結果が先の65%といった数値にもなっていくわけです。

それでは、デジタル技術を補完する能力とはどういったものでしょうか?
「機械との競争」の著者はこんなことを指摘しています。
ソフトなスキルの中でも、リーダーシップ、チーム作り、創造性などの重要性は高まる一方である。これらは機械による自動化がもっとも難しく、しかも起業家精神にあふれたダイナミックな経済ではもっとも需要の高いスキルだ。

以前のガリラボ通信にも書いたことがありますが、OECDは21世紀のスキルとしてキー・コンピテンシーというものを発表しています。
キー・コンピテンシーは、「機械との競争」の著者が言っていることとほぼ同様だろうと思います。

「機械との競争」の著者は、こうした、これれからのスキルの獲得のために、教育のあり方を変えていくべきだといいます。
現在の教育を「多くの教室での主な指導技術というと、石灰岩を粉にしたものを黒い大きな石板になすりつけることぐらいだ」と皮肉ったりしています。
だけど、石器時代の名残のような現在の教育は、欠点が多いゆえに改善できるのだとも主張されていました。
そのための改善案がいくつか挙げてありましたが、それを読みながら、これって、ガリラボのゼミでかなり前から取り入れていることだなと思いました。
反転授業のことが例として挙がっていましたが、ガリラボは随分前からその考え方を取り入れています。
実は、私はそれとは少し違うことを考えていました。
反転授業のコンセプトはある程度は考慮しつつも、それ以上に、ロサンゼルスの高校の先生が行った数学の授業が私にとって惹きつけられるモデルだったのです。
その授業とは、高校の数学の授業なのに、先生(ヒーリー先生と言います)はまったく教えないのです!
信じられますか。
この教えない授業は、下町の出来の悪い高校生たちを徐々に変えていき、最後にはその出来の悪い高校生たちが数学の定理についての新しい発見をし、米国の数学教育の論文誌に生徒たちが連名で論文を出すという、まるでアメリカンドリームのようなことにつながったのです。
かなり昔の話です。
だけど、これを知ってから、この方法をやろうというのが私の目標でした。
ところで、このやり方は、(最近のガリラボ通信でも紹介した)スーパープレゼンに登場したインドの先生による自己組織学習環境(SOLE)のようなもので、実はヒーリー先生によってそういった学習のやり方は実践されていたわけです。
教えない授業。
魅力的です。
(私が楽をするためとういう意味でも)非常に魅力的です。笑
今は、これは、ガリラボでの中心的なコンセプトになっています。
旧来のゼミのやり方から脱却し、今のガリラボのやり方を始めたときに意識していたわけではありませんが、後になって、そうしたやり方は、OECDのキー・コンピテンシー修得のためのプログラムになっているのに違いないと考えています。
ゼミの時間は正しく修得がなされているかのチェックの時間であって、スキルの獲得のための実践はそれ以外の空間に埋め込まれている。
教えない授業はもちろん簡単にできるわけではなく、それが前進していくには、外部条件のデザインが絶対条件になります。
ヒーリー先生の仕事は、外部条件によって生徒たちに制約を作り出すことでした。
隈研吾さん曰く「制約は母である。制約からすべてが生まれる。」です。
制約条件をある程度整え、学習が進行していくようデザインされているのがガリラボに他なりません。
その時、私という存在は、教える存在(教員)というよりも学生にとってひとつの学習リソースです。
教員の知識がその全てなどいうのは学びとは無縁です。
あくまでも学習リソースのひとつ。
他の学生も、学習リソースのひとつです。学生同士が相互に学習のリソースを形成する。
外への指向を重視しているのも、学習リソースの多様性を狙ってのことです。
こうした多様な学習のリソース群が埋め込まれた空間がガリラボです。
ガリラボという空間に深く入っていくことで(十全的参加していく)、そのリソースがよく見えるようになり(可視化されていきます)、それによって自己の成長を促され、キー・コンピテンシーといったものを身につけていくことになるのではないかと思っています。
違っているかもしれません。
ただ、その時でも何かの力はついているはずです。笑


本日、東京ビッグサイトで「全国就職指導ガイダンス」に参加し、そこで聞いた話と「機械との競争」の内容がかなり重なっているところがあり、刺激を受けて、書き連ねてみました。

東京ビッグサイト


2年生のゼミ募集の影響で、ガリラボとはゼミ生にとって一体どういった存在なのだろうと改めて深く深く考えていたことが、こんなに長い文章になった理由です。
ちなみにこんな長い文章をいつ書いたのかと思われた方もおられるかもしれません。
出張先でのガイダンスをさぼった決してありません。^^;
前から少し書いていたものに加筆したのです。
羽田空港で待ってる間に追記部分は書きました。
推敲ゼロだったので(見直す時間ゼロなので)、脈略のなく極めて読みにくかったかと思います。
申し訳ありません。


追伸
羽田に向かうモノレールの車内に熊本市の広告がありました。
2013年の熊本の水保全活動は、国連”生命の水”最優秀賞を受賞したのだそうです。
おめでとうございます。
それをモノレールの車内で知るとはですね・・^^;

 


   

0 件のコメント:

コメントを投稿