2017年9月16日土曜日

実践と教養と

教養教育とは
  この世界を自分が生まれた時よりも少しでも良いものにしてこの世を去りたい
という境地に誘うものであってほしい。
先日の研究会(ガリラボ通信2017/9/8)の基調講演で聞いた言葉です。
非常に感銘を受けました。J.S.ミルの言葉ということでした。
ミルは福沢諭吉らに強く影響を与えた人物のようです。
先の言葉は、手元においたまま読んでいなかった、ミルの1867年の講演記録「大学
教育について(岩波文庫)」にある言葉のようでした。
改めてページをめくると、この本の教養教育としての「道徳教育と宗教教育」の節に、

  大学が道徳的あるいは宗教的影響を学生に及ぼすことができるとするならば、
  それは特定の教育によるのではなく、大学全体にみながっている気風による
  のです。
  (略)
  高貴な心情ほど教師から学生へと容易に感染していくものはありません。
  今までにも、多くの学生たちは、一教授の強い影響を受けて、卑俗で利己的な
  目的を軽蔑し、この世界を自分が生まれたときよりも少しでも良いものにして
  この世を去りたいという高貴な大望を抱くにようになり、そしてそのような気
  持ちを生涯持ち続けたのであります。(106頁)

とあります。
大学全体にみなぎっている気風が教養であり、それは教員の中に埋め込まれているの
だと語っています。

責任を感じます。

本日、近畿大学国際学部の「1期生528人が留学から帰国」という記事(参照)に
圧倒されました。本学の地域実学主義としての「もやいすと育成」も同様で、昨今の
こうした実践を中心にする大学教育は、その必要性は極めて強いことは、疑いようも
ないことです。
もやいすと育成プログラムを手掛けるようになって4年目、その重要性は強く感じて
います。
こうした実践に向けて大学教育が舵を切り始めてから、実践へと舵が強く切られて過
ぎているようにも感じ、それで実践が実践だけに終わってしまうケースがあって、そ
れを、かつて「経験放置病」と名付けたことがあります(ガリラボ通信2016/6/5)。
経験学習を回せていないのです。
そうしたとき、ミルの言う教養の重要性を改めて感じます。
経験学習を回すためでもありますが、それ以上に、教養とは、その経験学習で良いのか
どうかといったメタレベルでの判断も提供するものではないかと思うからです。

ミルは、冒頭の言葉を経て、大学教育(その教養教育)について最後の結びで、こう
話しています。

  「諸君が人生に対してますます深く、ますます多種多様な興味を感ずる
  ようになる」ということであります。それは、人生を10倍も価値ある
  ものにし、しかも生涯を終えるまでに持ち続けることのできる価値です。
  (134頁)

大学で、実践の中に身をおき、さらにこうした価値を身につけていけると
理想的です。
完璧にそうしたレベルになるのは難しいでしょうが、ガリラボで良く話す、
  完璧を目指すより・・・
です。ガリラボのゼミ生には、実践を怠ることなく、しかしそれと同じぐらい、
ものを考える土台となる教養も身につけ、社会人となってから飛躍していける
人材を目指してほしい。
今日の話題に関連して、次も読んでみると良いかもしれません。社会人となり、
ある程度落ち着き始めたゼミ生には特に。
「経験という牢屋」のスピーチを読んでガリラボ通信2013/4/14


最後に・・・

この世界を自分が生まれた時よりも少しでも良いものにしてこの世を去りたい
J.S.ミル(1867)

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本日、自己推薦入試の初日でした。2日目の日程は台風18号のため延期となりました。
被害が大きくならないことを祈るばかりです。
 


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